深大寺用水とは、野崎村(現三鷹市)まで伸びていた砂川分水(梶野新田分水、野崎支線)を南へ延ばし、深大寺村他五ヶ村の田畑へ供給するため、明治初年に完成した用水路です。
この用水路は、安政2(1855)年の江戸大地震で、深大寺村野ヶ谷地区の水田への導水をしていた入間(いりま)川の湧水池(通称“釜”)が枯渇したため、村民が難儀したことから明治3(1870)年に、計画立案されました。
翌明治4年4月に分水許可が当時の所轄行政である品川県からおり、同年5月1日早朝から、村民全員で場所を分担しまずは砂川取水口?梶野新田まで14.1キロをわずか2日で拡幅し、さらに野崎までの5.74キロを1週間で堀広げました。
なぜ、はるか西方から取水している砂川用水の拡幅工事をしなければならなかったかというと、分水の許可がおりたのはあくまで野崎分水(支線)であり、それを辿ると砂川分水。つまり上流から“分け水の分を流すため”ということなのです(水積168坪9合5勺8寸とのこと)。
この水路の起案者は、深大寺村名主でのちの神代村初代村長、富澤松之助(天保15(1844)年生まれ)で、716両(“検討資料は不足”とのこと:『調布の古道・坂道・水路・橋』)もの私財を投じ完成させたようです。
公共工事であるにも関わらず、地域住民が費用と人を準備し工事するなど現代の感覚では考えられませんが、明治初年当時は当たり前のことだったようです。
なお、工事は1ヶ月ほどで終わったようですが、堀の土が慣れ完全に通水したのはそれよりかなり経った後とのことです。
また歴史的背景として、維新後における武蔵国の農村事情がかなり深く関わっていたようです。
旧幕時代の深大寺周辺は、幕府直轄の天領と旗本領であり、安政江戸大地震後の年貢取り立てなどあまり厳しくなかったようで、田畑は荒れ果てたまま明治維新を迎えました。
しかし、新しく設置された品川県の知事に就任した佐賀の古賀定雄(一平)は、県の農民に対し重税を強要し(元来、多摩は旧幕派在郷が多いので恐らく報復的な意味もあったと思います)村民は難儀しました。
そんな事情の中、用水路を作ろうという話が出たわけです。
つまり、村民が私財で用水路を建設=品川県の財政は困らない=品川県の建設認可=品川県は税収が増えるという何とも官僚的ものの考えからことは進んだようです。
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引用参考文献:
(1)『調布市史 中巻』調布市、平成4年3月31日年発行
(2)『三鷹市史』市史編纂室、昭和45年11月3日発行
(3)『調布の古道・坂道・水路・橋』調布市教育委員会、平成13年12月10日発行
※古道や水路のマップも付随し、内容の濃い資料です。
(4)『子どものための調布の歴史第二版』調布市立図書館、1993年3月15日発行
※大人でも楽しめます。水木しげる先生の表紙絵も素晴らしい。
(5)『明治前期・昭和前期 東京都市地図2(東京北部)』貝塚爽平/ 柏書房、1996年1月発行
(6)『明治前期・昭和前期 東京都市地図3(東京南部)』貝塚爽平/ 柏書房、1996年2月発行
(7)『地図で見る東京の変遷(平成改訂版)』(財)日本地図センター、平成8年発行
(8)『地図で見る多摩の変遷』(財)日本地図センター、平成5年発行