その後の深大寺用水

さて、深大寺用水。砂川の取水口から総延長33キロ(東西含む。二次以降分水含まず)の旅をしましたが、実はまだ行っていないところ(国分寺の南北に分かれる水路など〔※2010年11月現地取材しました〕)や調査不明箇所(東堀、野ヶ谷の多段水路、佐須地区の水車導水路跡など)が多数有り、随時調べたり補足訂正したいと思っております。

水路の開かれた時のことは少し書きましたが、その後深大寺用水はどうなったのか?

通水した後、荒地や畑になっていた旧水田の再生や新規水田化を行いました。
分水量は、水田面積の割合から東堀七、西堀三(異説、六:四)の割合で配分され、水田用途以外にも生活用水として住民を潤しました。
また、用水を利用した水車が何基も造られ、生糸の揚げ返しや精穀・製粉に活躍しました。

しかし、時代の流れとともに用水路も変遷していきました。
明治維新後、急速に都市化が進む東京(市)は、当然ながら水が不足し、旧幕時代からの続くライフラインである、玉川上水の給水量を増やすため、二次分水の取水制限をしていきました。
深大寺(砂川)用水も昭和に入った頃には相当水が少なくなっていたようです。

用水路としては昭和27年頃まで機能していたようで、明治中期(?)に結成された「砂川村他七ヶ村用水組合」という上水組合は戦後まだありました。
しかしながら、急速に進む流域の都市化により、上記上水組合は昭和37年2月に解散しました。深大寺用水流域の野ヶ谷、金子、神代などの水田も昭和37年頃から埋め立てられ、団地や宅地もしくは植木畑などに変わっていき昭和40年代には、上水路から排水路として機能は代わり、蓋をされ暗渠化し平成に入った頃には街から姿を消しました。

なんだか寂しい限りです。

投稿日

カテゴリー:

投稿者:

タグ: