横浜港に佇む「氷川丸」は、幾多の客船、数多の船という舟が波間に散った先の大戦を生き抜いた数少ない大型客船の一隻です。
撮影:2005年9月:山下公園
「氷川丸」は昭和5(1930)年4月、三菱重工横浜船渠にて完成された日本郵船の太平洋航路船で、総トン数1万2千トンクラスの昭和初期を代表する貨客船でした。
竣工後は、北米シアトル航路に就き、日米開戦までの期間、73次(往復)の航海を行い、東西の有名無名数多くの人々を運びドラマを生みました。
その中でも特に有名なエピソードとして、チャーリー・チャップリンにまつわる話があります。
昭和7年、来日中だったチャップリン(折しも五・一五事件のさなか)が帰国するため、内外多くの船舶会社が彼に乗船してもらうため、大々的な獲得競争を演じました。
最終的に日本郵船の「氷川丸」が勝ち得たのですが、その決め手は “天ぷら” 。
チャップリンが、大の天ぷら好きであることを掴んでいた日本郵船は、「氷川丸」のコックを日本橋の料理店でみっちり修行させ、彼への口説き文句が、「当船では熱々で美味しい天ぷらが食べられますよ」でした。
もちろん、天ぷらのみならず、「氷川丸」で提供される料理は最高の出来で、優秀なコック達が乗務していました。
さらにスチュアードなども洗練されたマナーとサービスを提供し、北米太平洋航路に相応しい優秀船でした。
しかしながら、昭和16(1941)年8月、世界情勢の緊張の高まりを理由にシアトル航路は休止され、その直後「氷川丸」は政府徴用船となり、日米国交断絶必須となったことから、引揚船として、往路は日本から北米へ帰る人々、復路は内地へ戻る邦人を輸送する航海を行いました。
そして同年11月に海軍船籍となり、外洋客船としての完成度が高く、使い勝手の良い(大きすぎないことなど)「氷川丸」は、病院船に最適と判断され、大阪商船籍の台湾航路用「高砂丸」(9315トン 終戦時残存)などとともに改装されました。
日本は、明治19(1886)年に、戦時下における傷病者や捕虜の取扱いを定めた『ジュネーブ協定』に批准しており、同協定下により、航行の安全を保障(非武装中立であれば交戦国からの攻撃の対象とならない)された病院船を北清事変(明治33年)から本格的に運用していました。
我が国では、陸軍と海軍それぞれが病院船を持っていましたが、その発想が両軍で異なっており、陸軍が “患者後方輸送” を主眼に運航していたのに対し、海軍は “洋上移動病院” として扱いました。
「氷川丸」は、本格的な手術室(三等食堂を改装)が完備され、船倉は病室、スモーキングラウンジは病院事務室、さらに極めつけは煙突横に火葬場までも船内にあるというまさ移動病院(それ以上)そのものでした。
病院長は軍医大佐が務め(船長ではない)、以下134名の医療業務従事者と105名の運航乗務員から構成され、終戦までの間延べ118回の任務を行いました。
白く塗られた船体に緑のラインと赤十字、さらに電飾で装飾された(夜間病院船と認識させるため)美しいこの船は、いつしか「白鳥」と呼ばれるようになったといいます。
また、客船時代からの船員やコックがそのまま乗務していたため、病院船となってもサービスの質は全く落ちていなかったと言われています(さすがに提供される食材の質は落ちた)。
もちろん病院船とはいえ安全とは言えず、例えば同じ病院船として運航していた陸軍徴用船 “ぶえのすあいれす丸”(9,626トン)は昭和18(1943)年11月26日、ラバウルからパラオに向う途中、米爆撃機B-24の攻撃に遭い撃沈されています(理由は定かではない)。
また “航海の安全” を逆手にとり、軍需物資や戦闘員を “密かに運ぶ” といったことも少なからずあったようで、「氷川丸」も明らかに国際法上違法な海軍航空隊の基地要員を移送や航空燃料の輸送も行ったと言われてます(移送中(海南島→内地)の基地要員は、白衣を着用したという)。
なお病院船のこういった事例は少なくなく、日本の病院船が敵潜などの追尾を受けたり、臨検されるケースも多く見られました。
いずれにせよ、「氷川丸」は辛くも終戦まで生き残り、その後は引揚船(当初は第二復員省徴用船だが1年後日本郵船に復帰)となり、11回の航海を行い、約二万人の将兵を母国日本へ帰還させました。
昭和22年、復員業務を終えた「氷川丸」は、数少ない大型稼働船の一つとして壊滅状態の国内における貨客運航業務を担い、昭和24年には、戦後初の外国航路として、東南アジアからの外米(がいまい)運搬に従事しました。
そして昭和25年9月、不定期ながらもポートランド航路に割り当てられ、9年ぶりの懐かしい北米航路に復活し、その三年後、シアトル航路として改めて正式に許可されました。
文字通り日本の戦後復興のため、不眠不休で大活躍をした「氷川丸」でしたが、船齢30年が経過した昭和35年、シアトル航路第45次(戦後)航海を最後についに引退、翌年には横浜港開港100周年記念事業の一環として横浜港山下公園横に係留され、ようやく安息の刻を得ました。
時代は昭和から平成に移った現在、船齢は80年を超えていますが、今なお健在でその美しい船体は横浜のシンボルシップとなり、現在の日本をひっそりと見守っています。
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引用参考文献:
(1)日本郵船氷川丸 各種パンフレットなど 日本郵船株式会社及び日本郵船歴史博物館
(2)『商船戦記』大内 建二 光人社、2004年12月12日発行
(3)『昭和船舶史』毎日新聞社、1980年5月25日発行
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