今回は、「特四式内火艇(とくよんしきうちびてい)カツ」(以下 “特四” )を取り上げたいと思います。
内火艇とは、小型交通艇(Launch)のことで、内燃機関により航行する艇を表す帝国海軍独特の軍(海)事用語です。
この特四、昭和19(1944)年に正式兵器として海軍が採用した魚雷内火艇です。
しかし外見は見ての通りキャタピラを履いた「戦車っぽい」スタイルであり、水陸両用車です。
本艇の開発目的はまさにそこにあって、環礁泊地攻撃を主眼に開発されました(正確ではない。後述)。
連合軍の反撃が激しくなってきた大戦後期、形勢を逆転すべく日本海軍は、マーシャル諸島に展開する米海軍機動部隊を攻撃するための作戦を立てました(作戦名 “雄作戦” )。
作戦計画は、昭和19年5月までに陸上基地の海軍機(一式陸攻、銀河、零戦など)282機と空母艦載機530機により機動部隊が停泊するメジュロ(マジュロ)泊地を航空攻撃し、さらに環礁内から出てきた艦艇に対しては、予め外洋で待機していた第六艦隊(潜水艦部隊)により雷撃させるといったものでした。
しかしながら泊地内から敵艦隊が出てこなければ配置した潜水艦部隊も無駄になる可能性があり、そこでせっかくの第六艦隊を有効利用するため、新たな環礁攻撃兵器として何か奇策はないかと思案した結果生み出されたのが特四でした。
環礁はその名の通りリング状に覆われた珊瑚礁のことで、内側には極めて穏やかな内海が広がっていて、その天然の要害で守られた内海は、艦隊にとって絶好の泊地となるわけですが、逆に暗礁の多い危険な場所でもあり(停泊地や航路は予め暗礁を爆破し水深を得ている)艦船の外洋と内海を繋ぐ通り道は数カ所に限られています。
そこで海上や暗礁、陸地部分をものとも言わず突破できる兵器が求められました。
特四は潜水艦の背中に子亀のように搭載され(のちの回天と同様)、浮上後に外洋から出撃。泊地内部に投錨している艦艇に魚雷攻撃を加えるといったいわば機動兵器・・・のハズでした。
(ちなみに本作戦を “竜巻作戦”という。特攻に限りなく近いが生還が前提)
実はこの特四、本来そのようなシロモノではなく、呉工廠造船実験部が昭和18年に完成させた貨物輸送用の水陸両用車(長さ11m 幅3.3m 高さ2.2m 排水量19?22トン)で、浮かぶトラックといった言った方が良いかもしれません。
ただ前部両舷に13.2ミリ九三式機銃を搭載していて案外重武装(戦車などの車載自衛用は7.7ミリほどが主流)でした。
機関と駆動系は先にあった特二式内火艇の流用で、120馬力の空冷ディーゼル直列六気筒エンジンを搭載し、水上を5ノット(約9.3キロ)で航行でき、兵員なら40名も乗せられたといいます。
このトラックを改造し、両舷に二式魚雷を搭載させ(発射管ではなく投下機)、突撃用機動兵器っぽく仕立て、特殊潜行艇隊員を70名を特四の要員としました。
そしてイ38潜など大型潜水艦5艦に計10艇(特四は18艇あった)の特四が二組ずつ搭載され、5月20日深夜に作戦決行されることになったのですが、竜巻作戦は決行される事はありませんでした。
理由としては、大多数の航空戦力を投入する雄作戦そのものが、リスクが大きく、連合艦隊司令部で消極的になったといいます。
さらに、特四を出撃させるため、その作業に要する時間を含めて母艦の浮上から潜行まで20分はかかるとされ、その間に捕捉されたらひとたまりもなく、また夜間120馬力のディーゼルエンジンの轟音を響かせながら、ヨタヨタと低速で殴り込んだところで、はじめから勝ち目はなく(大型の機動艦隊の方が遙かに高速)、メジュロ環礁泊地攻撃は白紙となりました。
なお、特四はこぶしほどの大きさの小石がキャタピラに挟まっただけでも起動輪が空回りしてしまったそうです。
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引用参考文献:
(1)『幻の秘密兵器』木俣 滋郎 光人社、1998年8月15日発行
(2)『潜水艦入門』木俣 滋郎 光人社、1998年6月13日発行
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