国分寺と調布を繋げる水路としてユニークな存在があります。
それは “野川用水” なる名称の農業悪水路です。
『調布市史 中巻』によれば、享保11(1726)年頃に佐須、金子、大町他八ヶ村(調布市狛江市内の野川流域の村々)が水不足を理由に玉川上水からの分水を請うて、国分寺村上流地に設けた樋口から灌漑用水をしたとあり、さらにその分水は20年しか続かず、延享2(1745)年に分水権を牟礼村に譲り渡し、変わって恋ヶ窪を水源とする野川から水を引き、その頃より野川の水を農業用水として使用しはじめたと書かれています。
しかしながらこの史稿は明らかに間違った記述であることが判ります。
『調布の古道・坂道・水路・橋』でも “市史には誤りがある” と結論しているのですが、ポイントとしては二つあり、それは “国分寺村から人工水路を引いた事実はない”?と “野川を農業用水として使用しはじめたのが延享期からではなくそれ以前からである”(※) です。それらは古文書などの解釈の違いなどから生じた結果であると思われます。
つまり分水とあるのはあくまで “分水権” のことであり、玉川上水に樋口を造り直接水路を引いたのではなく、国分寺村分水の末流が入る野川の水を使って灌漑するので、「その分水から助水した分だけ農業利用として使う権利をください」ということに他なりません。
当時、全ての分水(権)=人工水路(を造る)というわけではなく、分水権とは玉川上水から得られた水を、各種インフラ(自然河川含む)を通じて使用するための水利権のことであり、現在に名残る○○○分水、○○○用水、と呼ばれる全てがそれ専用の人工流路ではないということなのです。
これらを踏まえ「野川用水」を要約すると、
野川の恵まれた水量を用いた稲作を弥生時代以降行っていた調布近辺の水田は、近世の新田開発や人口増加、需要拡大などから水田への給水不足が発生し、享保期、国分寺村分水を通じて水利権(水積五寸四方分とされる)を得て、野川から灌漑していたが、その20年後の延享期には分水権を牟礼村に譲渡し(状況の変化だが、理由不明。牟礼村分水の成立)、再び元来の野川よりの自然水量でまかなうようになった。これら野川の利水を用いた総称を通俗的に「野川用水」と呼んだ。
ではないでしょうか。
なお、明治3(1870)年の分水大改正により国分寺村分水が砂川分水からの二次分水となり、野川に砂川分水の末流が深大寺用水開削前既に流入していた事実も面白い変遷だと思います。
ちなみに分水大改正時の砂川分水は、
二ツ塚 ― 国分寺村分水 → 野川
鈴木新田 ― 小金井村分水 → 野川
鈴木新田 ― 梶野新田分水 → 仙川分水 → 入間川 → 根田耕地用水 → 野川
その他 小筋
など複数の筋で野川に排水していたことになります。
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(※) 調布近隣で野川を農業用として灌漑利用していたのは江戸初期に既に見られ、延享期からではない。(『調布の古道・坂道・水路・橋』による)