(砂川分水探訪1)梶野新田分水 概略

実は先月から、砂川分水(用水)のことを再び調べはじめました。

現在の砂川分水は、玉川上水松中橋付近を取水起点とし、砂川各番と国分寺、小平、小金井、武蔵野、三鷹の各市を経て最終的に調布市内で野川に排水するという長大なルートを持つ用水路となっています(流路長は深大寺東西水路も合わせれば約32km)。

明暦3(1657)年の開削当時は取水口(現在とは異なる)から約一里ほどの流路長であり、それ以東は『享保の改革』期前後に掘られた別系統の分水路を明治初年に統廃合* したことと、深大寺用水を結合した結果今の姿となりました。

*玉川上水分水大改正:玉川上水へ通船事業を開始するにあたって、上水各所にあった取水樋口がじゃまになったことと、それまでの村・組から近代地方行政区分化をするための前準備(つまり水受益組合の合理化)が関係しているのかもしれない。
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(砂川分水探訪1)は、小金井市内を流れる梶野新田分水(用水)をレポートします。

現在は砂川分水全流路の一区間となっている本水路ですが、旧幕時代の開削当時は、同分水から独立した水路であったと思われます。
複数の散在する史料から考察すると、開削期(通水ではなく)は享保17(1732)年で、同年7月頃には仙川(現在の呼称だが便宜上)と交差する築樋工事を見分したとする文書も残っています。

梶野新田は、享保9(1724)年の小金井村近隣での新田割渡で開発権を受領した上小金井村名主梶野藤右衛門が中心となり開発された新田です。梶野新田の名も藤右衛門の姓からとられました。

新田開発権を与えられた梶野地区は、武蔵野台地上で水に乏しく、先ず始めに考えられた井戸による給水も台地に深井戸を掘削しなくてならず、あまり期待をしていなかったようです。
そこで、付近を流れる玉川上水から分水を得ようと考え(私が思うに藤右衛門は、はじめから玉川上水を利用したいと考えていたと推測)、享保10(1725)年頃から分水許可の請願を幕府出先機関に送り(請願書は再三送り続けたという)、同17(1732)年ようやく許可申請がおり、用水路を切り開く運びになりました。

玉川上水からの取水口は、(確たる証拠はないが)現在の小金井橋付近ではないかと思われます。

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流路は、いったん玉川上水と並行する形で東流し、現在の梶野町3丁目で東南に向きを変え、仙川の谷を築樋で交差、さらに南下し享保19(1734)年頃には現在の三鷹市まで延びて(野崎分水の項参照)、新川にて仙川分水と合流したと推測しています。

最終的に同水利を受益した村は八ヶ村で、梶野新田、染谷新田、南関野新田、境新田、井口新田五郎左衛門組、井口新田権三郎組、野崎新田、上仙川村のようです。

(補足1) 正徳年間(1704?15年)に描かれた水道絵図(出所:『小金井市誌』歴史編p160)に「境新田上水」なる玉川上水からの取水口が描かれており、梶野新田用水のことかもしれない。
(補足2) 現在の小金井橋以西は、明治3年頃に開削された新しい導水路と推測。

(メモ) 野崎村まで最初から引かれていたのか? 後年であれば梶野新田用水の初期の排水はどこか?

● 次のページ:【梶野新田分水 辿る編】

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注意事項】梶野新田用水関連ページは、すべてimakenpressが私的に調べ(文献調査および聞き取りなど)たもので、推測・推理など相当量含みます。歴史的・学術的価値はほぼ皆無ですのでご利用には十分ご注意ください。

引用参考文献:
(1)『小金井市誌 歴史編』小金井市、昭和45年10月31日発行
(2)『三鷹市史』市史編纂室、昭和45年11月3日発行
(3)『明治前期・昭和前期 東京都市地図2(東京北部)』貝塚爽平/ 柏書房、1996年1月発行
(4)『図解 武蔵野の水路』渡部一二著 東海大学出版会、2004年8月5日発行
(5)その他、明治?現代までの各種地図図版

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(注記)私的利用の範疇として以下のwebサービスから上記地図を作成しました。
 国土地理院:http://www.gsi.go.jp/
  ●地図閲覧サービス(ウォッちず):http://watchizu.gsi.go.jp/
   地図閲覧サービス 2万5千分1地形図名: 吉祥寺(東京)

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