Z飛行機計画から生まれた富嶽(G10N)のスペックとはどのようなものだったのか?
試製富嶽委員会と名乗ったプロジェクトチームは、いくつもの機体案を出しましたが、最終的には以下のようになったと言います。
●中島 超重爆撃機富嶽G10N諸元
全長:45.00m 全高:12.00m 全幅65.00m
主翼面積:350.0? 全備重量:1,600t
最高速度:680km/h
航続距離:16,000km
エンジン:中島ハ54空冷4列星型36気筒(5000hp)×6
プロペラ:二重反転定速3翅×2
武装:20mm機関砲×10、爆弾20t
必須事項:与圧キャビン、超大型機用降着装置
(『富士重工業三十年史』その他による)
当時世界に類を見ない超大型の巨人機であったことが判ります。
しかし陸海軍、軍需省からなる連合委員会は、陸海軍の意見対立などでまとまりがなく、一向に前進しないまま時がたち、挙げ句の果てには軍需省自身が協調を乱し、やがてはB-29による本土空襲が始まってしまいました。
中島飛行機はこの間、各機関を調整しつつ総力を挙げて設計を進めており、富嶽建造の工場も三鷹研究所に建設することに決まっていたそうです。
ただ搭載予定のターボチャージャー装備大型発動機BHダブル(ハ54)の開発に難儀したようで、大型機を飛ばすだけの安定した出力を得ることが出来ず、最終的には自社開発を諦め三菱の試作エンジン“ハ50”(星形複列22気筒)の搭載を選択したと言われています。ちなみに“ハ50”は、成田空港近くの航空科学博物館に展示されているそうです。
その後富嶽計画は、本土決戦に傾向していた時勢からすでにかけ離れたものとなっており、1機の超大型機を造るより、同資材で数十機の戦闘機を造った方が明らかに有用であるなどの理由から昭和19(1944)年8月に作業が中止されプロジェクトチームも正式に解散しました。
もちろん建造に必須であった与圧キャビンや新型の降着装置、さらには武器管制システムなど当時の日本の工業力からいって開発は不可能に近く、富嶽を完成させることは初めから荒唐無稽だったのかも知れません。
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※前出の引き込み線が富嶽と少しながら関係していた(か?)と思うと胸躍るimakenpressです。