中島飛行機 計画機“富嶽”について (1) Z飛行機

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戦史資料から中島飛行機の三鷹研究所を調べていると必ずといって良いほど記述されているのが、重爆撃機“富嶽”とZ飛行機計画です。

ではこの“Z飛行機”なるものは一体何か?
これは中島飛行機創業者の中島知久平が、軍部や政府上層部に提出した論文「必勝戦策」によって生まれた超大型攻撃機のことで、長大な航続距離を持つ機体を造り、米本土を含む遠距離の敵拠点を航空強襲することを第一目標とした航空機のことです。

「必勝戦策」は、開戦時から資源と工業生産力の枯渇を危惧していた知久平がアメリカの航空戦略、ことにのB-29、B-36(開発していることを公表していた)の本土襲来を開戦三年後あたりだろうと予期し、我が国が先手をうち守勢化していた戦局の形勢逆転をねらい書かれたとされます。

【必勝戦策の概要】
1 工業力の乏しい日本の軍需生産戦策ではアメリカに太刀打ちできない。
2 前戦における米軍戦力を斬減させるには米本土の生産拠点に物質的打撃を加えるしかない。同時にアメリカ国民に戦意を消失させる。
3 米本土を攻撃可能にするためには、優速な六発爆撃機の大量建造が必至。
4 米軍のB-29、B-36実戦配備前に如何に迅速に当戦策を行うかが最重要。

知久平自身の中では、昭和17(1942)年後半あたりから六発エンジンからなる超大型攻撃機(爆撃機)を建造する構想をしていたようで、昭和18(1943)年1月には中島飛行機全首脳を招集し、爆撃機建造の構想を説明したといいます。

初めは中島飛行機単独で開発しようとしていたZ飛行機ですが、昭和19(1944)年はじめ、正式に計画承認されZ飛行機の開発がスタートしました。
機体開発は、陸海軍と軍需省の共同で進められ、いくつかの設計案が出された結果、そのうちの一つとして誕生したのが『富嶽』(G10N)なのです。

【注意事項】本レポートは、すべてimakenpressが私的に調べ(文献調査および聞き取りなど)たもので、推測・推理など相当量含みます。歴史的・学術的価値はほぼ皆無ですのでご利用には十分ご注意ください。
※イラストはimakenpressが空想で描いたものです。

引用参考文献:
(1)『中島飛行機物語』 前川 正男 光人社、2000年6月14日発行
(2)『日本軍試作機』双葉社、2003年11月25日発行
(3)『富士重工業三十年史』富士重工業株式会社、昭和59年7月15日発行

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