昭和47(1972)年発行(昭文社刊)の調布市市街地図を入手しました。
国土地理院の2万5千分1およびと5万分の1地形図を元図に編纂され、昭和40年に承認されたものです。
昭和47年と言えば、野ヶ谷、神代金子などの水田はすでに埋め立てられ宅地化され、調布市内の深大寺用水も農業用水としての機能はほぼ皆無で、排水路として転用されていた頃です。
本図からは、深大寺用水が開渠排水路として宅地を流れていた様子が判りとても興味深いです。
【転載:昭文社刊行『調布狛江市街図』昭和47年8月発行】
(転載に問題があった場合は早急に削除致します:管理者)
まずは、東西に別れる付近?諏訪神社近辺の図。
水分かれ以北は水路の記載がありません。ただ、野崎八幡東側はまだ開渠されていたと記憶しています。
また上図左側、第一ゴム(現・調布北高校)西側武蔵境通り沿いを南に流れていた西堀の記載もありませんが、こちらも開渠のはずです。
なお、この付近の東八道路(当時の俗称は30メーター道路)はすでに完成済み。
地図に記載のある東堀を追ってみます。→ 深大寺用水:辿る編 その4(東堀1)
市境を東に進みます。
吉祥寺病院北側の流路があるところは畑で、子どもの頃よく遊んでいました(いまも畑ですが当然ながら中へは入れません。当時もですが・・)。
堀跡があったのを覚えていますが、水はなかったと思います。
『どうどうの滝』で進路を変え、諏訪神社まで南下します。
諏訪神社から先に進みます。
旧野ヶ谷田んぼも団地(宅地)化が進んでいることが判ります。
なお、入間川はすでに暗渠化されていたようです。
この先の原山付近が面白いことが判りました。
原山通りはまだ未完成。
実は本来の流路は、この原山通りに出てから水路トンネルを抜けさらに南下するのですが、中央道のオープンカット工事により東堀は分断されました。
(昭和47年当時、調布IC・高井戸IC間はまだ開通前で“工事中”扱い)
そのため、すぐ東に流れる入間川(中仙川)の谷へ流路を変更しそちらに落としたようです。
水田はすでに無く、水利権組合「砂川村他七ヶ村用水組合」も解散しており、この辺りも排水路かと思われます。
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?と言うことで、本図から当時の開渠の様子や、中央道を掘る(高速を走ると判ると思いますが、三鷹料金所の西、深大寺バス停付近はかなり深い切堀になっています)ことで流路を変更したことなど興味深い発見がありました。