野崎分水。
明治初年の深大寺用水開削後の流路はハッキリとしていますが、それ以前、水はいったい何処へ流れて行ったのか?
『三鷹市史』(昭和45年11月3日 三鷹市発行)にいくつか興味深いことが書かれていますので、同市史を参考にしつつ追っていきます。
享保年間に小金井より掘られてきた『梶野新田五ケ村呑水組合水路』(『深大寺用水創設以来沿革』富澤家文書)ですが、はじめ私はこの“五ヶ村”という文言から、以下の村々が受益したと推測しました。
小金井新田村、梶野新田村、関野新田村、井口新田村、野崎村
ということは、流末の野崎村で河川へ排水したと考え、以下の二つが有力かと思いました。
(1) 野崎→大沢の谷
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(2) 野崎→後の東堀が入間川源頭まで実は開削済みで入間川へ放流
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しかしどちらも深大寺用水開削の話(釜の枯渇云々)と整合性がとれない。
ということで謎だらけでしたが、この“五ヶ村用水”が本来の梶野新田用水ではなく、『三鷹市史』によると実は“八ヶ村用水”であり、受益した村々は、
梶野新田、染谷新田、南関野新田、境新田、井口新田五郎左衛門組、井口新田権三郎組、野崎新田、上仙川村
で、享保19(1734)年に所轄の代官へ分水許可の願い済みとあり、更に市史では“昭和一〇年代までは、野崎十字路で道の北側から南側に水路を移し、道に沿って新川辺りまで東流していた”と書かれています。
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すなわち、文政の頃に願い出た用水路は、享保年間に開通し、各新田への灌漑や飲料水用として使われ、“梶野新田から新川まで掘られた水路は、既に掘られていた仙川分水(入間川養水)へ流したと私は考えました。
※仙川分水:実は品川用水とされる境新田の玉川上水取水口→新川間はこの分水の本流にあたり、品川用水西分水を含めて中仙川と合流するまでを仙川分水と言います。(『品川用水沿革史』昭和18年品川用水普通水利組合刊行など)
なお、明治13年測量の陸軍迅速測図には井口、野崎両新田箇所に水田の記載がまったくなく、松林や畑(もしくは荒れ地)となっています。
どうも寛政年間(1789?1801年)より水量が減って、新田として開発した土地も荒廃していったようです。
野崎分水、調べているうちに、砂川、品川、仙川など分水路は統廃合などが非常に多く、面白いです。
メモ1:仙川分水は、品川用水西分水区間も含めて、江戸時代の開削期から昭和までの間、水量は時代により変化するものの水路は機能していた。
メモ2:梶野新田用水が、明治以後砂川用水に取り込まれ、さらに野崎より下流は深大寺用水部分が本流と化したので、野崎・新川間は、水路としては残ったものの野崎支線となった。(支線は戦前に廃止か?)