しがらみという魔物を捨てる欲

実家を整理している。
単なる片付けではなく、すべての家具や私物の整理だ。

この家は父が二年前に亡くなって以来、主を失った住まいとなっていた。
管理は私が行っていたが、ついに手放すこととなった。

期限が迫る中、ありとあらゆる調度品を始末した。
そんな作業を黙々と行っていると、実家近隣に住む婆様がやってきた。
名前は仮に橘さんとしておこう。

橘さんは、

「なぜここに住まないのか?」

「なぜまだ使えるものを捨てるのか?」

「着物とか家具は売れるよ。フリマで裁けば」

など怒濤の勢いで私に問いかけた。

私は、

「既に別の場所に住んでいるのでここに住む理由がない」

「捨てるのは私の勝手だ。私はこれらを欲していない」

「着物とか家具なんて二束三文。売る手間の方が面倒」

と答える。

なお橘さんは私が幼少の頃からの知り合いなのでかれこれ四十年以上のつき合いだ。
もちろん橘さん自身は他意はなく、また嫌みでもないのだが私自身その場で言わなかった本当の理由があった。

それは過去のしがらみを捨てたかったからに外ならない。
ここに住むと言うことは、私は永遠に子どもと言うことだ。
つまり、近隣の昔から住んでいる連中にとって私は小さい頃のままのイメージであり、口を開けばやれ父や母の頃はどうの、結婚してアンタ何年?、子どもは作らないの? ・・・ ズカズカ人の心の奥底まで土足で入り込み根掘り葉掘り私の事を聞く。
それが嫌なのだ。

実家に放置している大半のモノはそれら過去のしがらみやら嫌な思い出まで付着している。
そんなモノ手元に置いておきたくない。
父や母の遺品や形見など数点の小物で十分だ。
古い父の交友関係を記したノートや手紙など全く無用なモノで全て捨てた。

「絆」というキーワードが、昨年の震災で大きくクローズアップされ、希釈になりがちな現代社会において忘れていた日本人の奥底にある人と人とのつき合い方や助け合い支え合いが再認識されたことはたいへん良いことではあるが、他人の胸中に入り込むことやお節介を焼くことは「絆」ではない。これらは某朝ドラ主人公のみにして欲しい。
人の生き方をそっと影で見守るのもそれもまた「絆」だ。

私は自分の心底に入り込んでくる輩は大嫌いだ。
先代からのしがらみが多々ある土地が苦手だ。
だからこそここには住まない。

橘さんは最後に、

「アンタ、欲がないね」

と私に言った。

この返事はあえてせず無視した。

“欲がない” ではなくその逆だ。

“しがらみという魔物を捨てる欲” の方が金銭欲より大きかったに過ぎないのだから。

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