【大戦中の特殊船】10 長駆一万五千浬―Uボート日本へ

1943(昭和18)年5月10日朝、ドイツ海軍ロリアン軍港に設けられた巨大なブンカー(潜水艦防空待避壕)に、この日、同盟国日本に向け作戦航海するため一隻のドイツ潜水艦が出港準備をしていました。

その潜水艦はU511(日本側呼称 “さつき一号”)といい、大西洋での通商破壊作戦に最適な長航続力を備えたIXC型と呼ばれる系列のUボートで、今回の日本行きは本艦と同系艦U1224の二隻を無償で日本に寄贈する代わりに、IXC型を日本で量産しインド洋と太平洋において通商破壊作戦を行って欲しいというドイツ側の要望によるものでした。
そして午後1時、U511は軍楽隊が奏でる日本国歌とドイツ国歌が鳴り響くブンカーからゆっくり滑り出し、上空に舞う防空気球と海面に磁気機雷がひしめくロリアンの港外に出ると同時に潜航を開始しました。
日本までは約1万5千浬(3万キロ)あり、航海日数にして2?3ヶ月、英国勢力圏のスエズ通行は不可能なため、日露戦争におけるバルチック艦隊のコースと同様、喜望峰沖を大きく迂回するルートを取らなくてはなりません。
軍事同盟を締結していた日独は、それぞれ極東と欧州という地理的に東西に離れた位置関係にあり、戦時下における相互交通手段(戦略物資バーターなど)として、長距離航空機による空路、仮装商船による海路、潜水艦などが検討がされてきましたが、結局のところ隠密性が優れ大型艦であればそれなりの物資も搭載可能な潜水艦による往来が最善と判断され実行されていました。

日独潜水艦連絡航路図

今回のU511日本回航以前にも、キニーネ、錫などドイツ向け戦略物資を搭載した帝国海軍イ30潜が昭和17(1942)年8月に遣独に成功(帰邦途中の17年10月13日、シンガポール港で触雷沈没)し、翌18年4月には日本とドイツ双方から発ったイ29潜とU180がマダガスカル沖海域にて会合、高波の中物資交換を行い、さらにイ29潜からドイツに向かう江見哲四郎海軍中佐と友永英夫造船少佐(渡欧後中佐昇進) 1) がU180に移乗、U180からはインドの独立運動家チャンドラ・ボースとその秘書ハッサンがイ29潜に移り日本へ向いました。

U511は当時26歳のフリッツ・シュネーヴィント中尉を艦長としたドイツ海軍精鋭の水兵たちが操艦し日本へ向ったのですが、艦には二名の日本人も乗艦していました。
その二名はドイツ駐在武官野村直邦海軍中将と杉田保軍医少佐(野村中将が心臓疾患を持っていたため同行)で日本政府の帰国指示によってのものでした(帰国の段取りは “ある暗号通信” 2) により行われた)。
出港十日目にはアゾレス諸島沖を通過、さらに二十日にはアフリカ南端に達し、敵陣営国である南アフリカ連邦の哨戒圏を避けるため、喜望峰300浬沖の南極暴風圏 “ローリングフォーティーズ” の荒天海域を数日間航行し、6月下旬には同海域を突破。インド洋へ進出ののち、商船狩りを行いながら東進を続け7月15日、日本勢力下マラッカペナン軍港に到着しました。
野村中将一行は当地で下船し、久々の日本食を食し同じ艦で同行したドイツ人潜水艦技師たちと共に空路日本へ向いました。

呂号第五〇〇潜水艦 ロ500(U511)

ペナン軍港は帝国海軍のインド洋方面における一大拠点であり、同方面に進出してくる独潜も度々補給を受けていました。U511も補給とメンテナンスを行い(損傷具合は皆無だったという)、同艦の性能調査と日本までの航路誘導のため奥田増蔵海軍大佐他4名の日本人が乗り込み7月24日に抜錨しました。
マラッカ海峡を抜けると、この先は日本勢力圏であり、当時はまだ比較的安全な海域だったのですが、7月29日南シナ海を北上中、思いもかけないハプニングに遭遇してしまいました。
同海域で高雄からシンガポールに向う日本輸送船団(ヒ3船団)と遭遇、奥田大佐が味方識別信号と発光信号などで友軍艦であることを伝えたものの、U511の船体塗装が大西洋向けの明るいグレー塗装のままであったため(日潜は太平洋向けの黒色系)船団が敵艦と見誤り砲撃を開始してしまいました。
奥田大佐は懸命に手旗信号を送り砲撃は中止され、臨検を行うために接近してきた船団護衛の海防艦「択捉」に状況を詳細に説明し事なきを得ました。
そして8月6日U511は無事呉工廠潜水艦桟橋に接岸し任務を全うしました。

U511はその後帝国海軍籍に正式に編入され、呂号第五〇〇潜水艦となりました。
海軍技術陣はシステムや装備を徹底解析したものの、当然ながらすべての部品が異なる規格で建造されており、兵装や機関なども当時の日本の技術レベルでは完全にオーバーテクノロジーであったため、量産化は見送られました(しかしながら研究データは、新造高速潜水艦イ201型の建造に役に立てられた)。
昭和20年8月の終戦直前、ロ500潜はソ連参戦に備えイ121潜、ロ68潜と共に樺太沖北方海域に出撃するため舞鶴に在泊していましたが、程なく8月15日の終戦を迎え、戦後米軍の手により海没処分されました。
なおドイツ海軍のシュネーヴィント艦長は遣日作戦完了後、東京で盛大な歓待を受けその後U511のクルーとともにドイツ潜水艦部隊としてインド洋方面に転戦、ジャワ海で全員戦死しました。

U511と共に日本へ送られる僚艦U1224(IXC/40型 日本側呼称 “さつき二号”)は、昭和18(1943)年8月31日に遣独に成功した帝国海軍イ8潜(復路無事日本へ帰還。往復航海成功は日独唯一の事例)で送られた60名の日本人が操艦訓練を行った後、呂号第五〇一潜水艦と命名され、昭和19年3月31日に乗田貞敏海軍中佐を艦長としてドイツ海軍キール軍港を出港し日本へ向いましたが、5月13日大西洋上で米海軍哨戒部隊と会敵し撃沈されました。
なお同艦には海軍技術関係者と共にMe163ロケット戦闘機及びMe262ジェット戦闘機の設計図 3) なども積み込まれていましたが、ロ501潜と共にすべて大西洋上で消失してしまいました。

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1) 友永英夫造船中佐:友永中佐は潜水艦用自動懸吊装置、重油漏洩防止装置の開発者で、内外にその名を知られる造船学の権威者だった。本国の帰国命令により同じく渡欧していた庄司元三技術中佐(航空工学、ことジェットエンジンの権威)と共に、U234で帰国の途につくが、航海半ばでドイツ降伏の急報を受ける。この時点で友永と庄司はドイツにとって敵国軍人となった。当初、日本へ駐在武官として赴任するため同乗していたケスラー空軍大将の指示で南米中立国に向かい二名を下ろそうとしたが、フェーラー艦長の反対で連合国に降伏し二人を引き渡すことが決定された。やがてU234は連合国に無電で降伏を伝え、同艦はメキシコ湾を合衆国に向け西進、米海軍の艦艇が捕獲に迫る最中、友永と庄司は服毒自決を遂げた。
2) ある暗号通信:無電通信における暗号変換ミスやラグのない正確で速達度の高い手段が求められ、外務省調査局事務官樺山資英がかつて天津会議中に内地との連絡に用いた “鹿児島弁による国際電話通話” をすることを思いつき、野村中将帰国に関する通信で使うこととなった。交信官には鹿児島県人の外務省勤務牧秀司と駐独大使館員曾木隆輝が選ばれ行った。
「カジキサー ユシトシノオヤジャ モ モグイヤッタドカイ」 「モ モグリョッタ」 ・・・・
本通信を傍受した米情報局は、当初どこの国の言語か全く掴むことができなかったが、同部勤務のアメリカ日系人伊丹明(出身は米国だが父親の故郷鹿児島県加治木村に渡り教育を受けた)が鹿児島弁であることに気づき通話内容はたちまち解読しされてしまった(相手が伊丹と旧知の曾木であることも判った)。伊丹は戦後来日して東京裁判の通訳官などをしたが、自責の念に駆られたためか次第に精神を病み、横浜市内で拳銃を使い自らの命を絶った。
3) Me163とMe262の設計図:この二機は日本がB29迎撃と対艦攻撃の切り札として期待していた。昭和19年3月11日に遣独に成功した帝国海軍イ29潜にも同様に積み込まれ復路日本へ向ったものの、7月26日にバシー海峡を航行中米潜の雷撃を受け撃沈された。ただ設計図の一部は、イ29潜に同乗していた巌谷中佐の機転で、シンガポール到着時に同中佐と共に空路日本へ運んでいた。その資料を基に不十分ながらもロケット攻撃機 “秋水” と特殊攻撃機 “橘花” の開発がされた。しかしながら実戦への参加を待たず終戦を迎えた。

 

引用参考文献:
(1)『深海の使者』吉村 昭 文春文庫、1990年7月5日第11刷発行
(2)『伊58潜帰投せり』橋本 以行 朝日ソノラマ、昭和62年1月16日発行
(3)『別冊歴史読本第18(414)号 日本海軍軍艦総覧』新人物往来社、1997年7月18日発行

(番外)『D機関情報』西村 京太郎 講談社文庫、1988年10月12日第22刷発行
フィクションだが主人公関谷直人海軍中佐が遣独艦(伊号第二〇六潜水艦なる架空艦。ただ同型番は実在し終戦時未成)に乗艦して渡欧する下りがある。恐らくイ8潜の航海記録を参考にしたと思われる。

●本戦記関連の記事は、私imakenpressの独自考察や推察推測、思考など多分に含んでいます。
●イラスト類は、複数の参考文献を基に私imakenpressが作成してます。よってディテールやスケールなど正確性に欠けます。
●帝国海軍潜水艦の名称について、呂号第五〇一潜水艦、伊号第五八潜水艦といった呼称もしくは表記が正式な用い方ですが、本記事中では当時からの俗称、略称であったロ501潜、イ58潜といった表記も併せて行っています。

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