【大戦中の特殊船】8 千石船の末裔、機帆船戦地へ

江戸初期、仙台藩士支倉常長の慶長遣欧使節において使用された「サン・フアン・バウティスタ号」(500トン相当のスペイン式帆走軍船)など本格的な外洋船舶を運用させていた我が国ですが、徳川秀忠、家光治世に始まった鎖国政策により、幕末期開国されるまでは海外渡航用船舶の建造と運用は禁止されていました。

旧幕時代の海運業は国内の沿海運送に限られ、使用する貨客運搬船には、幕法内(注:詳細な建造規格が定められていたという訳ではない)で建造された「弁才船(べざいせん)」と呼ばれる荷船(廻船)が使用されました。
この箱形の運搬船は、復元力が悪く波浪による転覆や漂流事故が多発したのですが、江戸後期における北海道(遠くは択捉、樺太あたりまで)と上方とを結ぶ物流ルート船 “北前船” で大きく発展し、米穀換算で千?二千石をも運搬できるほど大型化し、「千石船」として親しまれました。

「千石船」は明治以後、船舶が帆走ではなく機械動力による自力航行可能となってからも、大正年間くらいまでは日本の津々浦々で使われ続けました。
同時に、簡易点火構造のグロー機関(焼き玉エンジン)と呼ばれるレシプロエンジンが、明治末から大正初期に日本に伝わり、その使い勝手の良さから漁船など小型船舶の主機関として用いられるようになりました。俗に言う「ポンポン船」の誕生です。
この「ポンポン船」に帆を立て、帆走併用で航行可能とし船のことを日本では一般に「機帆船」と呼ばれています(黒船など大型船も機帆船なのだが)。

機帆船

?機帆船は、100トン前後の木造小型船で、河川や沿岸部での使い勝手が良く、それに目を付けた帝国陸軍は日中戦争勃発後多くの機帆船を大陸に移送し、揚子江流域などで軍務に就かせました。
やがてアジア各地に戦線が拡大していくと、陸軍は機帆船の大量生産化を計画策定し、正式に戦時標準設計船として機帆船が加えられ、70?300トンの六種類からなる木造船が大量生産されることになり、日本の漁船などを造船している数多くの造船所から日本郵船など大規模な海運会社までを総動員し、昭和17(1942)年6月頃から続々と造られ、戦地に送られていきました(もちろん国内でも多目的に使用された)。

戦地では、島嶼間の物資輸送や河川沿岸の兵員輸送、さらに戦闘参加といった多目的に使われました(木造機帆油槽船まであったと言うが実際に運用されたかどうかは不明)。
そして基本的に現地での使用が前提のため(戦地生産もなされていた)、その大半はアジア各地で戦火に散り、終戦時に生き残った機帆船も現地に投棄され、稼働可能なものは修理などをして戦後現地の人の足として使われたと推測されます。

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引用参考文献:
(1)『戦時標準船入門』大内 建二 光人社、2010年7月23日発行
(2)『昭和船舶史』毎日新聞社、1980年5月25日発行
(3)日本財団 図書館(http://nippon.zaidan.info/)各種船舶資料?

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