【大戦中の特殊船】4 深海に潜む龍

帝国海軍は日米開戦前夜、来るべき艦隊決戦用の斬込み兵器として、二人乗り小型潜水艦「甲標的」を極秘裡に開発しました。
甲標的は、特殊潜航艇と呼ばれ、予め艦隊戦想定海域に身を潜め、主力艦同士がぶつかる前に敵艦に対し、魚雷攻撃を喰らわせる奇襲型兵器として誕生しました。
航空機が戦場での優劣を左右する太平洋での戦いが始まってからは、泊地攻撃に運用目的が変更され、真珠湾、シドニー港、ディエゴ・スアレス港などに対する攻撃に使われました。

その後、海軍工作学校(浦賀)が、特殊潜航艇に飛行機のような翼を取り付け、そのエルロンの上げ下げにて浮沈する有翼潜航艇なる新兵器を考え出し、昭和18(1943)年7月に海軍航空技術廠で実用テストを完了させ、19年2月頃に試作艇を完成させました。
「SS金物」というコードネームを与えられた本艇は、通常の潜水艦より機構が単純で生産性が高い上、搭乗員の訓練にも時間が掛からないため、本土決戦の切り札として20年4月に量産命令が下り、その名も「海龍」と名付けられました。

特殊潜行艇 海龍

(イラストは魚雷懸架装置を備えた雷装設計の海竜)

海龍は、甲標的と同じ二人乗りで全長17m、重量19トン、潜航深度が他の標準的な潜水艦の倍、200mまで可能という特徴を持っていました。
さらに二種類の機関を備えており、水中航行用は九二式電池魚雷のモーターを流用し、水上用はトラックの100馬力ディーゼルエンジンをそのまま搭載していました。水中で10ノット、水上で7.5ノットの速力が出せたそうです。
しかし水中10ノットでは、回天(最大40ノット(公称))の1/4程度しか出すことができず、洋上での対艦攻撃には向いていなかったと思われます。その代わり航続距離が戦速5ノットで450浬:約833.4kmという長大な戦域をカバーすることが可能とされました。

また、特筆すべき事に操舵装置には、航空機と同じ操縦桿を備え(陸上攻撃機「銀河」の流用)、その方式まで飛行機と同じでした(ただ操縦は簡便だが運動性は悪かったという)。

搭載兵器は、45センチ小型魚雷を2本両舷にぶら下げ(発射管ではなく)ることになっていましたが、その魚雷の生産が本体に追いつかず、結局量産機は魚雷懸架装置を付けず、頭部に500もしくは600キロの爆薬を詰め込み敵艦に体当たりする特攻潜航艇となってしまいました(爆装型における一艇の搭乗員数は不詳)。

終戦間際の20年7月、全国の沿岸に設けられた秘匿特攻基地に合計224(228?)隻の海龍が配備されましたが、幸か不幸かついに出撃の機会はありませんでした。
ただ、いくら航続距離(作戦行動時間)が長いとはいえ、低速であることに加え、回天の搭載爆薬1500キロと比べ遙かに少ない600キロの爆装量だったことを鑑みても特攻による戦果には疑問を感じます(とうぜんながら爆薬搭載の区間を設けるわけで搭載電池、燃料も減らされ行動範囲は相当狭くなっただろう)。

なお海龍は実戦にこそ参加していないものの、訓練中に起きた事故と網代に配備中の数隻が受けた米軍機襲撃により、数名の尊い命が海原に散華しています。

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引用参考文献:
(1)『幻の秘密兵器』木俣 滋郎 光人社、1998年8月15日発行
(2)『別冊歴史読本第43(439)号 玉砕戦と特別攻撃隊』新人物往来社、1998年1月6日発行

●本戦記関連の記事は、私imakenpressの独自考察や推察推測、思考など多分に含んでいます。
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