境村分水 概略

境村分水(境新田村分水)とは、武蔵野市境地区の玉川上水から取水分岐され、南東方向に流れていたとされる分水です。

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「上水記」(寛政3(1791)年)にその記述が確認できる境村分水は、詳細を記した郷土資料が少なく実態を掴みにくいですが、境新田(後の境村)開発時に造られたと思われます。

境村は元々、初代松江藩主松平出羽守直政の下屋敷があった所で、上保谷村在の三右衛門により新田開発が請願され、境新田として寛文年間(1661~72年)頃成立したとみられます。
境新田から境村昇格後の村域は現在の武蔵野市境および境南地区がほぼ属し、玉川上水北側にも子村として新田((新)境新田)がありました。

新田(本村)成立期が開削期と仮定すると、武蔵野の中では割と早い時期の寛文年間もしくは延宝年間(1673~81年)初期に通水されたと推察されます。

流路は、玉川上水境橋南側(千川取水口反対側)からの取水され、南東方向に進み、仙川(当時は季節河川)の浅い谷を掛樋で渡ったのち現武蔵境駅方面へ通水していたようで、記録によると24町(約2600m)の流路長、境村一村用とされていました。
その末裔と思われる水路は、昭和中期まで下水化し残渠していたと見られ、当時は取水樋が既になく、西から延長した砂川二次分水(梶野築樋を経由せず)と接続していた様子が地形図から確認できます((仮称)梶野境接続1号水路)。

なお流末は不明ながら地形から鑑みると、仙川に落としていたのかも知れません。
また昭和30年代の地形図には、本線西に南に走る支線が描かれています。
支線は中央線南側で図上から消えていますが、さらに南の砂川分水(梶野新田分水野崎支線)と接続してる水路があり、縁戚は不明ながら関係はありそうです。

(メモ1)梶野新田方面、築樋より下流に位置する砂川分水より北の境南地区を西から東に流れる水路もあった模様((仮称)梶野境接続2号水路)。

(メモ2)梶野境接続水路は昭和期、梶野築樋廃止後に新たに設定された下水渠かも知れない。

● 次のページ:【境村新田分水 辿る編】

 

注意事項】境村新田用水関連ページは、すべてimakenpressが私的に調べ(文献調査および聞き取りなど)たもので、推測・推理など相当量含みます。歴史的・学術的価値はほぼ皆無ですのでご利用には十分ご注意ください。

引用参考文献:
(1)『武蔵野市史』武蔵野市、昭和45年3月発行
(2)『子ども武蔵野市史』武蔵野市立図書館、平成22年3月31日発行
(3)『明治前期・昭和前期 東京都市地図2(東京北部)』貝塚爽平/ 柏書房、1996年1月発行
(4)『図解 武蔵野の水路』東海大学出版会、2004年8月5日発行
(5)その他、明治~現代までの各種地図図版

これまでのコメント

  1. えいはち :

    なるほど~、このとき歩いていたのは境村分水跡ということになりますね。
    http://ei8at12so.seesaa.net/article/130090294.html
    そしてこのとき、ちらっと歩いたのが梶野境接続1号水路跡というわけでしたか。
    http://ei8at12so.seesaa.net/article/155479422.html
    さらに、松江藩主松平出羽守のお屋敷といえば、ウチの近所、東京オペラシティ裏、玉川上水新水路跡=水道道路脇のデニーズ&テニスコートの場所を思い起こします。神田川笹塚支流=和泉川の一支流の水源となっていた「出羽様の池」がかつてあったというところです。手元の資料は安政年間のものなので、最後の藩主定安の屋敷となっています。ウチの辺りでも、当時は「下屋敷」だったんでしょうかね。

  2. imakenpress :

    えいはちさん こんにちは~。
    謎多き境村分水。妄想炸裂モードで調査執筆中です。
    本日、梶野境接続1号水路も辿ってきました。近日辿る編にて公開します。

    松平直政の下屋敷は武蔵境杵築大社にかつてあって、こちらの境内にも小さいながらも美しい池があります。
    「出羽様の池」、当時どのような規模だったのか気になります。都心や住宅地にかつてあった湧水池、結構マイブームです(まだまだ無学で記事を書けませんが・・・)。(笑)

  3. ぶらじい :

    はじめまして。

    懐かしい境村分水(名前はつい最近」武蔵野図書館で知りました)、旧武蔵野第2小に通っていた私は、学校の西の少し高い堤を流れている小川の横を歩いて通っていました。
    もちろん仙川の上にコンクリ-トの川のための橋をおもしろく思っていました。
    これを遡ると武蔵高校の横を流れ、さらに上流のケヤキ林の脇を流れている涼やかな小川がよみがえってきます。
    当時の農家の周りには、この用水から引かれたと思われる小川が流れていました。
    私の旧家の東にもこの痕跡がありました。

    何かさらにわかったら教えてください。

    また、品川用水の取り入れ口で水遊びをしていましたが、ワrガキ仲間では『しなんぼり』と読んでいたような記憶があります。 この件ももしご存知でしたら教えていただければ幸いです。

  4. imakenpress :

    ぶらじいさん こんにちは。はじめまして、imakenと申します。
    貴重なお話しを聞かせて頂いてありがとうございます!
    やはり付近に小川が複数あったのですね。
    しかも下水化以前の清流だった当時をご存じで、遊ばれた経験もあるなど、うらやましいです。
    境、三鷹周辺は今後も色々調査取材を続けていきたいと思っています。
    『しなんぼり』という言い方は、『品川の堀』の意味みたいですね。はっきりとしたことは判りませんが、私の地元の深大寺用水を『にしぼり』『ひがしぼり』と呼んでいたことなどから、「○○ぼり」という言い方が通俗的に多かったと思われます。(『しなんぼり』という音の響きがとても滑らかでいいですね!)

  5. ぶらじい :

    ありがとうございます。

    スッキリしました。
    六中のそばの八坂神社あたりは”そだやの森”と呼んでいました。
    ここの北側を流れる品川用水は赤土をくりぬいた深さ2~3mで、その底に子供のひざぐらいの清流を流していました。
    すべる赤土のふちを降りて、メダカを採って遊んでいました。桜橋そばの取り入れ口は少し広くなっていて、泳ぐこともできました。今では夢のよう・・
    そういえば小は30年前後には水が流れなくなって下流にはゴミがすてられるようになりました。

  6. imakenpress :

    ぶらじいさん こんばんは。
    “そだやの森”とはこれもまたいい響きですね!!
    かつての清流の水路など想像するだけでワクワクしました。
    私も幼少の頃の昭和40年代は三鷹の大沢のハケのわき水で遊んでいました。

    ほんとに今はもう・・・って感じですね。

  7. ぶらじい :

    大沢のハケですか。
    ICUのそばですね、今は野川公園、その前はゴルフ場、さらにその前は牧場だったと子ですね。
    世代は違いますが、われらの遠征場所でした。
    縄文土器を拾ったり、防空壕に探検したり、」今のICU本部の西にあった中島飛行機の工場に石を投げてガラス窓を割ったり、ICU本部の手すりを滑り降りたりワルガキの思い出いっぱいの場所です。

    残念なのはICUと野川公園の間に無粋な金網の咲くができたこと、また、和風庭園の下にあったわさび田あたりが荒れ放題になっていること。

    imakenpressさんの10年ほど前に遊んでいた、懐かしいとこです。

  8. imakenpress :

    ぶらじいさん どうもです。(^-^)ゝ
    おお、ナイスな悪ガキぶりでしたね!!(すみません)
    野川周辺の牧場だった頃は亡くなった父親(昭和20年代に上京)からよく聞かされました。
    わさび田は私も覚えていますが、その後湧き水の沢はゴミが不法投棄され何やら悲しくなりました。
    あ、防空壕。私も大沢現七中下にまだ残っていた旧調布基地の待避壕に入って遊んだことがあります。今は立ち入り禁止となってしまいましたが・・・

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