(砂川分水探訪4)野中新田分水 概略

砂川分水を東に辿っていくと、立川国分寺市境にて南北二筋に分かれ、国分寺市並木町一丁目(野中新田)東端付近で再び合流するユニークな区間があります。
実はもともと砂川分水ではなく、享保14(1729)年に開削された「野中新田分水」と呼ばれた別渠でした。

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本分水は、小川新田地先の玉川上水樋口から分水され、野村新田六左衛門組と榎戸新田の飲水用だったとされます。
また流末は、鈴木新田分水に水渡しを行い同分水と結合していたと考えられています。

享保年間当時は東の小金井村分水、梶野新田分水とは接続されていなかったはずで、どこに排水していたかは情報不足で不明ですが、南の貫井村分水あたりに落としていたのかも知れません。
そして時代が下り明治3(1870)年の分水大改正時、鈴木新田分水ともどもも砂川分水の一部として吸収され、それまで跨いでいた国分寺村分水が二ツ塚から分岐されるようになりました。

なお「上水記」(寛政3(1791)年)によると、寛政3年調査時の玉川上水における南面右岸分水数は20(左岸13)あり、野中新田分水の記載はされていません(『図解 武蔵野の水路』p.68図1-1による)。
ただし、砂川分水と国分寺村分水の間に平兵衛新田分水、中藤新田分水、榎戸新田分水、鈴木新田分水の記載があり、砂川分水からの二次分水も上掲20分水中に含まれていると見られ、新田が多数成立した享保の改革が一段落した寛政期における分水の実態は、後世の分水統廃合などで非常につかみ難くなっています。

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引用参考文献:
(1)『国分寺市史 下巻』国分寺市、平成2年3月31日発行
(2)『明治前期・昭和前期 東京都市地図4(東京西部)』貝塚爽平/ 柏書房、1996年3月発行
(3)『図解 武蔵野の水路』渡部一二著 東海大学出版会、2004年8月5日発行
(4)その他、明治?現代までの各種地図図版

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