(砂川分水探訪3)砂川分水 排水路の考察(2)

(1)に続いて、砂川分水の初期排水路について考察してみます。

砂川分水が開削された年とされる明暦3(1657)年は、四代将軍徳川家綱が統治する時代で、関ヶ原の合戦から半世紀が経ち武断政治から文治政治へと日本の政治経済が大きく変革した時でした。

かつて吹きさらしで荒れ野原だった江戸市中も、人口増加とともに都市機能の拡充がはかられ、悲願の上水設備も玉川上水開通と共に解消されたのもこの時代です。
他方農村部も、それを統治する諸藩(幕府直轄領の代官等も含めて)は度重なる兵役と膨大な軍事費から解放され、農産業などの内政拡充に努められるようになりました。

折しも寛永年間(1624?1643年)後半に全国的に拡がった「寛永の大飢饉」(一説に死者10数万人)により江戸幕府は、諸藩に対して課役軽減や農業増産など農政改革を余儀なくされました。

多摩においても、後年享保期(1716?1735年)における大規模な開発とまではいかないまでも、新田開発が奨励され、江戸初期における新田新村が各地で成立しました。

さて、前置きが長くなりましたが、砂川分水開通時期の砂川近辺ではどうだったのか?

集落として形成された(旧)砂川新田は上郷(一番?四番)と下郷(五番?八番)で、現在の九番十番はまだ拓かれていません。
玉川上水南側に分岐する分水も、砂川分水以東では現在の鷹の台付近で分岐されていた国分寺分水しかなく(私論)砂川分水の最初期に到達する距離としては無理があります。

ここで注目すべき水路が三支存在します。

西から一つ目は「八軒渠」、二つ目が「南側之樋渠」で三つ目が「中藤新田分水」なる南進水路(渠)です。

「八軒渠」とは八番付近の砂川分水から分岐南流し、芋窪新田(狭山芋窪村が親村)と八軒新田(砂川新田(九番)が親村)、すなわち西砂川方面へ通水していた渠で、「南側之樋渠」は九番川越街道東で分岐、同じく南流し榎戸弁天新田(羽村の出)への通水をしていました。
「中藤新田分水」は、(新)砂川新田の羽ヶ下なる地の玉川上水から分水させ、前田(十番)、中藤新田を潤し、平兵衛新田方面へ通水していた水路です。

享保期 南砂側 想像図(注:上図はかなりいい加減です。特に南進水路線は私の推測に過ぎません 転載禁止

ただしこれら三支は、享保年間の開削とされており(中藤新田分水は享保14(1729)年開削とされるが前二渠は享保期開削としか判らない(私が))、上記新田群も明暦年間には存在しません。

そこで私なりの仮説を立てたいと思います。
(かなりの脳内妄想モードで(笑))

――砂川分水 排水路の考察(3)へ続きます(予定)

????????????-
(注記)私的利用の範疇として以下のwebサービスから上記地図を作成しました。
国土地理院:http://www.gsi.go.jp/
●地図閲覧サービス(ウォッちず):http://watchizu.gsi.go.jp/
地図閲覧サービス 2万5千分1地形図名: 立川(東京)

投稿日

カテゴリー:

,

投稿者:

タグ: