(砂川分水探訪3)砂川分水 前史

砂川分水。
全長約32kmに及ぶこの玉川上水二次分水は、江戸初期の明暦年間(1655?1658年)から昭和中期までの300余年、玉川上水南側に位置する武蔵野台地を潤してきました。
用水路としての役割は、昭和38(1963)年2月に水利権組合である「砂川村外七ヶ村用水組合」が解散し、その時をもって終えました。

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?本水路は、他の項目でたびたび書いている通り、最初から一本の長い堀であったわけではなく、度重なる延長工事と他水路との統廃合によりなった姿です(明治3年の分水大改正時、九つの分水がまとめられたという)。
変遷をまとめると、
 (1)明暦年間の開削と初期の水路開発
 (2)享保年間(1716?1735年)の新田開発
 (3)明治3(1870)年の分水大改正と翌年の深大寺用水開削
に大まかに分けることができます。

今回の(砂川分水探訪3)では、上記のうち(1)を主に取りあげたいと思っています。

水路の名称となっている砂川は、昭和30年代におきた米軍立川基地拡張を巡る住民闘争である「砂川紛争(事件)」の舞台として全国的に知られる土地です。
現在の立川市北側に位置する砂川は、開墾が始まるまでは痩せた不毛の台地でした。
当地の新田開発は、多摩地方でも比較的早い時期の慶長14(1609)年に村山郷(現、武蔵村山市)在の村野三右衛門(村野肥後安次?)により計画されました。
しかし開発段階での入村者は皆無で、出作農民(他村からの出張農作業者)すらいませんでした。
この辺りの事情は、恐らく古村の農民たちが新田開発を必要としていなかったのではないかと思われます。
実際に入村者が現れ、開墾が本格的に開始されたのは、18年後の寛永4(1627)年だったとされます(当地の新田は水田ではなく畑。後に養蚕桑栽培が盛んになる)。

開発から約30年後の承応3(1654)年、残堀川(現在の流路とはかなり異なる)に沿ってあった小さな砂川集落近くに、江戸市中まで伸びる玉川上水が竣工しました。
砂川村では、その分水許可を幕府から得ることができ、明暦3(1657)年に念願であった用水路が開かれ、以後の経済に多大なる発展をもたらし、村も五日市街道に沿って大きく展開されていきました。

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《コラム:全区間における砂川分水の名称について》
『砂川用水』(分水ではなく)という呼び方が立川?三鷹までの流域に浸透しているように思えます。ただし私の住む調布では上流部も含めて『深大寺用水』と呼ぶ人が多数派。(笑)
また、明治3年の大改正後、『玉川上水分水南側元堀』と呼ばれたそうですが親しみ深い名称とはほど遠い印象を受けます。
なお、私が全区間を見て歩きした結果、各地域での呼称は以下のような感じです。(説明書き看板などによる)
 (1)立川市、国分寺市 : 砂川用水
 (2)小平市 : 深大寺用水
 (3)小金井市 : 砂川用水、梶野分水、深大寺用水 併称
 (4)武蔵野市、三鷹市 : 砂川用水
 (5)調布市 : 深大寺用水
※語弊がありましたらごめんなさい・・・・
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注意事項】砂川分水関連ページは、すべてimakenpressが私的に調べ(文献調査および聞き取りなど)たもので、推測・推理など相当量含みます。歴史的・学術的価値はほぼ皆無ですのでご利用には十分ご注意ください。

引用参考文献:
(1)『砂川の歴史』砂川町、昭和38年4月30日発行
(2)『立川市史 下巻』立川市、昭和44年1月25日発行
(3)『国分寺市史 下巻』国分寺市、平成2年3月31日発行
(4)『小金井市誌 地理編』小金井市、昭和43年3月10日発行
(5)『三鷹市史』市史編纂室、昭和45年11月3日発行
(6)『明治前期・昭和前期 東京都市地図4(東京西部)』貝塚爽平/ 柏書房、1996年3月発行
(7)『図解 武蔵野の水路』渡部一二著 東海大学出版会、2004年8月5日発行
(8)その他、明治?現代までの各種地図図版

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