野崎分水 概略

年末でなかなかフィールドに出られないため、久々に卓上での空想炸裂モードで水路探検しています。(^_^;)

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今回取り上げるのは野崎分水、またの名を野崎支線。

砂川で玉川上水から取水された砂川分水(用水)を野崎村(現、三鷹市野崎)まで引き込んだ分水で、水路の範囲として、おおよそ小金井?野崎までの区間を指します。
江戸後期にはその存在は確認され、野崎分水の上流梶野新田用水に包括される形として『梶野新田五ケ村呑水組合水路』と呼ばれていたようです。

砂川分水の末流であることには間違いはないのですが、歴史的背景から少し違います。

歴史をひもときます。

明暦3(1657)年幕府財政再建の一環として、武蔵野新田開発のため玉川上水から分水され、松中橋から上水と平行し東上し、天王橋から五日市街道に沿って開通された砂川分水【引用:「砂川の歴史」)】は五日市街道沿いを潤し、砂川村および周辺の地域経済に大いに貢献しました。

その砂川村より二里ほど東の小金井村でも、新田開発を行うため元禄年間(1688?1704年)に玉川上水からの取水を幕府から許可され小金井(村)分水が開通しました。
また、小金井村の東隣に位置する梶野村も新田開発のため、享保17(1732)年に推定小金井分水から分岐する形※注で梶野新田用水が掘られたようです。
この享保年間に野崎村まで用水路が開削されたと推測されます。

さて、梶野新田用水が砂川分水の末流であるという訳は、明治3(1870)年に『玉川上水の通船事業に支障有り』との理由から分水樋口が廃止され、新たに砂川分水を延長し小金井用水へ接続したことによります。
ちなみに深大寺用水は明治4年の開通です。

では本題の野崎分水についてですが、次回はその“水の行き先”を推理しようと思います。

● 次のページ:【野崎分水 明治維新前の水の行方】

※注 正徳年間(1704?15年)に描かれた水道絵図(出所:『小金井市誌』歴史編p160)に「境新田上水」なる玉川上水からの取水口が、千川上水西方に描かれており玉川上水から直接取水されたかもしれない。また享保15(1730)年の分水嘆願書には小金井橋付近から取水したいと願う記述もある。

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