調布飛行場小史(1)

調布、三鷹、府中の三市にまたがる調布飛行場は現在、伊豆諸島神津島などへの離島定期便を持つ“都営”空港ですが、先の大戦では旧日本陸軍航空隊の基地として、帝都防空の任にあたっていました。

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建設前の当地は、50万坪とも言われる広さの大半が赤松やススキの広がる原野でしたが、予定地内に農家などの私有地も多く点在していて、それらは昭和13年頃から用地買収されました。
着工は、昭和14年(史料によっては「昭和14年にできた」と書かれているものもあるが間違い)で、急ピッチで工事が進められ、16年4月に開設されました。まさに対米英戦突入の前夜のことでした。
その後の戦時下、数回にわたる拡張工事を行い、飛田給地区の鎮守である道生神社や同地区の覚證寺、光岳寺、長専寺の三寺も移設させられました(これらお寺は分割され丸太を下に置き人力運搬されたといいます)。その拡張工事で飛行場北側にあった近藤勇生家も取り壊されました。
また、隣接する中島飛行機三鷹工場(現、野川公園・国際基督教大学・富士重工)との連結構想(直接はされなかった)もあったそうです。

はじめは東京府が軍民共用の空港として開設したのですが、太平洋戦争突入によりほぼ陸軍の航空基地として運用されるようになり、昭和17年4月18日の帝都初空襲、いわゆるドーリットル空襲により調布飛行場は重要視されるようになりました。

調布飛行場用水路は、戦争中に飛行場を雨水や湧水などの出水から守る導水路として開削されたそうで、さながら城を囲むお堀のような様相を感じさせられるのは気のせいでしょうか。

いずれにせよ、激動の時期に造られ、かつ帝都防空の陣地を守るとても重要な用水路として産声をあげました。

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