…雲白く…昭和55年夏

閑話、――36年前の夏の思い出エッセイ

ボイコット問題で揺れるモスクワ五輪が開催された昭和55年夏、小学六年生だった私は、当時通っていた地元学習塾(といっても塾生は4人だが…)が企画した泊まり込み合宿に参加した。

その塾の講師で、万年留年生だったK大生J先生に引率され、わたしは同学年の塾生他3名たちと信州を旅した。体よく言えば塾の「夏季合宿」なのだが、実体は遊びに行っただけだった。

泊まる先は、藤村《とうそん》文学に心酔していたJ先生のホームグランドで、ゆかりの深い長野県A市ユースホステル(現存するので実名は伏せる。以下ユースもしくはYH)。
いまの若者でユースを知っている人は少ないかも知れないが、 当時は空前のYHブーム(正確には末期)で、どこのYHも夏休み中など大盛況だった。

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1970年代はじめ、アメリカ発祥のバックパッキングが紹介される形で輸入され、日本で空前のバックパッカーブームが到来した。
その牽引役は大学生の徒歩旅行、自然愛好サークルが中心だった。

全共闘運動がもはや時代にそぐわなくなり、追い打ちをかけるように連赤事件が明るみに出るに至り、急進的な新左翼運動は大学の表舞台から去り、体制という巨大なシステムに飲み込まれていくことで、挫折感と無力感に包まれていた学生たちが求めていた新世界へのいざないは、バックパッキングカルチャーと合致していた。

必然ともいえるが、程なくYHブームも到来した。
YHの説明や基本概念は、自分が持っている情報量では、ここに書くことはできないので割愛するが、かつて、80年代初頭くらいまでのユースは、現在もそうだが若者、特に女子を含めた学生が単独でも安全に宿泊でき(身元がはっきりしている会員制)、かつ健全な宿の代名詞であり、全国各地から集まってきた若きトラベラーたちは、談話室や食堂、寝所で、これまでの旅の話をしたり将来のことを語り合いながら過ごした。なお寝所は男女別ドミトリー(相部屋)が原則である。

YHは、たんなる宿泊施設の名称ではなく、ユースホステル運動と日本では呼ばれる「青少年教育促進」における「集団活動の宿泊施設」とでも言った方がより正確な立ち位置だ。
そのため、友愛と奉仕の相互扶助が原則で、食器洗いや部屋の掃除はトラベラーが率先して行うことが望ましいとされている。

また、宿内での飲酒喫煙の禁止、厳格な門限や消灯時間、さらにはYH規格に沿ったシーツ(スリーピングシーツと呼ばれる)を個人で用意(借りることもできた)することと、寝所で使う施設の布団や毛布のたたみ方まで厳密にマニュアル化されていた。

そしてYHを語る上で切り離すことができないイベントが「ミーティング」ある。
ここで言う「ミーティング」とは、トラベラー同士の社交空間のことで、夕食と片付けが終わり、少し時間をあけた後、宿泊者は談話室や食堂など定められた場所に集合し、ゲームなどを行って互いの親睦を深める。これは任意参加ではなく、ユース利用者の義務とされていた。

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と、ここまで書いた事は40年近く前のアナクロなYHの話で、海外事情は自分は未知だが、国内の現在では「厳格さ」や「義務」といったことはかなり払拭され、当時とは事情はかなり異なる(直近で2004年に家内と宿泊した経験がある)。

話を昭和55年夏の私の話に戻す。
大学生1名と小学生4名の一団は、上野発の急行列車に乗り込み、信越本線を下ること数時間、信州A駅に辿り着いた。
駅からローカルバスに乗り込み、トウモロコシ畑が広がる直線の登坂路を数十分揺られ、YH前のバス停に到着し、寒蝉《ひぐらし》の大合唱に迎えられ宿内に入った。

割り当てられたドミトリーには、学生サイクリストが先におり、自転車バックを枕にうたた寝していた。建物の壁に数台のキャンピングランドナーが立てかけてあったから、その持ち主の1人だったのだろう(後で聞いたが明日は直江津まで走るとのことだった)。

休憩し、数時間後には夕飯時となり、食堂にはたくさんのトラベラーが集まっていた。皆大学生だ。
食事が終わり、片付けなどで少し時間をあけた後、「ミーティング」が同じ食堂で始まった。

子供は宿泊客中、私たち4人の小学生だけだったから、たちまち注目の的となった。
妙なテンションのなか自己紹介をさせられたり、自分などはYHの専用シーツのたたみ方などを教え込まれるべく、場内上方に呼び出され、ベテランらしきヘルパー(YHの世話人。基本的にボランティア)から「アナタ、コレ敷いてみて」とシーツをトスされた。

予備知識はなかったから、我流でベットに見立てたソファーに敷いてみた。

会場からはどっと笑い声が広がった。

正規のやり方ではなかったからだ。
当たり前だ、子供が初めて泊まるユースの作法など知るよしもない。
私は恥を掻かされた。 ベテランヘルパーの狙った通りだったわけだが、内心かなり傷ついた。

これを皮切りに「ミーティング」は進行し、いまいちルール不明確の全員参加型ゲームをやらされたり、J先生(K大学サイクリング部所属で当時20歳代半ば、YH長年のヘルパーでもあった)が弾くピアノにあわせ歌えや踊れやの大盛況は、場内異様な興奮状態で怪気炎に包まれてた(もちろん酒は入っていない)。

時間が経つにつれ、子供心ながらその空気に違和感を覚え、騒ぎ立てる大学生たちとは反比例にどんどん気分が冷めていった。
以後、数日間、宿を離れるまで参加させられるのだが、元来、「お楽しみ会」的な集まりや運動会は嫌いだし、他人とベタベタするのも苦手な私だったから、この異次元空間はトラウマとなり、こういった催しがいっそう嫌いになっていった。

YHの(当時の)「ミーティング」、別に否定するつもりもないし、社会経験を積み重ね大人となったいまの私にはその意義も判る気はする。
しかし、時代の流れなのだろう、私のような否定的な意見は多く、ミーティングの強制参加はおろか開かないYHも今現在ある。

それから10年くらい経ち、大人となった私も自転車や徒歩でバックパッキングをするようになった。
もちろんミーティングのトラウマがあるので、YHは極力使わず、寝床は野宿かキャンプ、もしくは安宿と決め、少人数か単独でのフリートラベルを楽しんだ(学生時代はワンゲルでそれなりの人数行動はしたが)。ある意味、この昭和55年夏の旅が原点となったのだろう。

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さて、この信州旅行だが、そんな苦い思い出より実は楽しいことの方が多かった。

勉強は朝のほんの1時間程度だったと記憶している。そのあとに遊びの時間が始まるわけだが、登山や歴史探訪、温泉場を巡ったり、魚釣りなどをして夏の信州を楽しんだ。

J先生は、出身地は忘れたが自転車ツーリングやキャンプが好きな好青年で、自然や動植物を愛し、造詣深かった。
ハイキング中、山や谷の形勢や成り立ち、地層の見方、浅間山の歴史といった自然科学を実地で私たちに教え、また付近に自生する木の実や野草の名と特徴を解説しながら採取した。持参したビニール袋にはたちまちそれらでいっぱいとなった(いま思えば、登山路とは言え他人もしくは国家の土地だから「犯罪」だ)。
そして渓流でニジマスを釣り(こちらはちゃんとしたお金を払って入渓するマス釣り場)、5人の魚篭《びく》は魚でいっぱいになった。
また、持病による体調不良に苦しむ塾生を背負子に乗せて道中歩くなど、かなりの強力剛脚の持ち主だったと思う。

『収穫物』はYHに戻り、調理され我々のお腹にたっぷりと入った。ひじょうに美味だったと記憶している(いまは恐らく衛生上しない行為だと思うが…)。

いま思うと、J先生がこの夏合宿で我々に教えたかった本当のことは、机上でペンを取るガリガリ勉強ではなく、自然の中から色々教えたかったのだろう。学んだことは少なくなかった。

数日後、東京に戻る日が来た。
ユースのペアレントやヘルパー、さらには寒蝉の大歓声見送りを受けながらバスに乗りA駅に向かった。

復路は、来たとき利用した信越本線ではなく南の中央本線経由となり、普通列車を乗り継いで帰った。さいごの列車内では熟睡したので、以後の記憶はほとんどない。

 

あれから36年が経過した。
いまだ夏が来る度、この少年期の苦い記憶と楽しかった信州での思い出が頭から引き出される。

現在の私の日常生活には、あの夏の日の感動と衝撃を得たイベントに匹敵する出来事は皆無に等しい。しかしながら自分という個性が形成されるに至る少年期の体験はたいへん貴重で私にとって極上の財産となった。
すでに還暦を超えているJ先生とは、30年以上音信不通だが、当時法学生だったので、恐らくは司法の世界へ進んだとは思う。

ありがとうJ先生!

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