また起きてしまった地元での航空機事故
昭和55年夏、当時小学六年だった自分には、地元への航空機墜落事故という衝撃的な出来事があった。
間近にある調布飛行場を離着陸する小型航空機のルート直下で育った自分は、飛行機好きで、大空を往く機体とプロペラ音には特に珍しい光景でもないし耳障りも感じていなかった。
昭和45年頃の飛行場。写真子供は私
撮影:先代
しかし暑いあの日、飛行機は地元の中学校校庭に墜ちた。
衝撃だった。
墜落するなど夢にも思ったこともない飛行機が墜ちた。
その後の惨状は鮮明に覚えており、校庭に偶然居合わせた人(記憶では部活練習中)や付近に住んでいた親の知人などからいろいろな生の事故状況を聞かされた。それらはここでは書かない。
事故後自分は「飛行機は墜ちるもの」と考えが変わった。
——-
30年以上の月日が流れた。
飛行機が墜落した中学校西側は、昭和の事故当時「関東村」と呼ばれる広大な米軍施設跡地(戦時中までは帝国陸軍調布基地および軍用地)でうっそうとしていた場所だったが、現在はスタジアムや公園となり当時の面影は少ない。
そして立地や環境が良くなれば、とうぜんのように人口は増え、生活道は綺麗に再整備され住宅も倍増した。
昭和の墜落事故を知っている地元住民は少なくなり、また記憶も薄れつつあったいま、同じ地区で事故が起きた。しかも当時とは比較にならない大惨事で住宅地へ墜落し、そこで暮らしている人の命まで奪った。
行政、飛行場運営側、航空会社その他の安全対策は万全であったと信じたいがやはり飛行機は墜ちるのだ。
調布飛行場を利用する島嶼定期便は、伊豆七島と首都圏を短時間で結ぶ数少ない手段で、ビジネスには欠かせない。よって調布飛行場の運用停止など現実的ではないし不可能である。
しかしながら調布飛行場の運用目的の明確化や個人所有機によるホビーフライトの “完全” 禁止※ などはすべきではないだろうか。
調布に住む自分としては安全対策をさらに強化して頂きたい。
※調布離発着機の遊覧飛行は禁止されてはいる。
——-
余談かも知れないが、幼少の頃、地元の人から調布地域への米軍機からの空襲の話を聞かされたことを思い出した。
調布飛行場の前身である帝国陸軍調布基地は航空隊の飛行場(さらに北側には中島飛行機の研究施設が隣接されていた)であり、帝都防空の文字通り一翼を担っていた。
その為、終戦となる昭和20年初頭から再三にわたり調布地域は連合軍の航空攻撃の対象となり記録では15回空襲を受け多数の人が犠牲になった。
昭和40年代の “調布基地跡”
撮影:先代
戦争と事故では違うが、同様に我々昭和の事故を知っている世代は今後も語り継いでいかないと感じている。