牟礼村分水 概略

享保元年(1716年)、八代将軍徳川吉宗が自ら主導して行った国策事業“享保の改革”が始まった。改革は財政・農政の安定化と農産業の進展を主眼とし、荒地開墾や新田事業を推し進め、承応3(1654)年に通水した玉川上水流域でも田畑を切り開くため、いくつもの二次分水(野火止、千川、品川など)が許可され開削されることとなった。

現在の三鷹市を北から南に流れる牟礼村分水(牟礼用水または三鷹用水とも)もこのような歴史的背景のもと、延享2(1745)年に幕府に出願し、牟礼村一ヶ村灌漑専用として開削された。取水口は現井の頭公園南端、ジブリ美術館東側“ほたる橋”付近で、そこから南方約1キロに位置する三鷹台団地と牟礼団地にかつて存在した水田地帯(通称“牟礼田んぼ”)への通水開発(灌漑用水専用と推察)が主目的であった。

流路は比較的簡単に知ることができ、ごく最近の昭和31年修正測量1:10000地形図でも水路が記載されている。その図上によると、取水口を南下し、牟礼水田で複数の分流に細分。それら水田余水を集め烏山飛び地(現在の下本宿)で西から来る品川用水本流を隧道で抜け(図上確認)自然河川の中ノ川(中川、水無川)と連結していたことが確認出来る。また、水田地帯で複数化された細流は、中ノ川以外の品川用水や烏山用水にも連結していたと思われる。

牟礼田んぼは、分水許可4年後の寛延2(1749)年に畑から水田となり、戦後の昭和20年代終わりから30年代初め頃まで存在していた。なお、水田面積はほとんど変化が見られず、明治初年が十八町、大正年間から昭和28(1953)年にかけても十七町であった。

その後、近隣の都市化により灌漑用水としての役目を終えた昭和33(1958)年から水路の暗渠化がはじまり、牟礼分水は下水化した。
玉川上水から給水停止後、近代水路用に取水口から敷設されていた全長約300メートルの埋設500ミリヒューム管は、現在でも地下に眠ったままである。

 

【注意事項】牟礼用水関連ページは、すべてimakenpressが私的に調べ(文献調査および聞き取りなど)たもので、推測・推理など相当量含みます。歴史的・学術的価値はほぼ皆無ですのでご利用には十分ご注意ください。

引用参考文献:
(1)『三鷹市史』史編纂室、昭和45年11月3日発行
(2)『写真集みたかの今昔』三鷹市教育委員会、平成12年11月10日発行
(3)『明治前期・昭和前期 東京都市地図2(東京北部)』貝塚爽平/ 柏書房、1996年1月発行
(4)『明治前期・昭和前期 東京都市地図3(東京南部)』貝塚爽平/ 柏書房、1996年2月発行
(5)『地図で見る東京の変遷(平成改訂版)』(財)日本地図センター、平成8年発行
(6)『地図で見る多摩の変遷』(財)日本地図センター、平成5年発行
(7)『図解 武蔵野の水路』渡部一二著 東海大学出版会、2004年8月5日発行

投稿日

カテゴリー:

,

投稿者:

タグ: